美は心のなかにある
高校時代、美術部の先輩が卒業メッセージ集に次のような言葉を書いているのを読んだ。
――なによりも自由なものは心のなかの物思い。
その人の心の風景を想像し、素敵な人だと思ったことをはっきり覚えている。
地球上には知られているだけでおよそ175万種の生き物が生息している。それらを「人間とそれ以外」に大別することができる。人間だけがエライなどとは毛頭考えていないが、明らかに人間とそれ以外の生き物は異なる。
両者を分ける条件はいくつもあるが、「あるものを美と感じる心があるかどうか」もそのひとつだと思う。
美しいと感じたとき、心が潤い、まぶたが熱くなり、動悸がし、心が虚ろになり、畏れ、思わずかしずいてしまうような状態に陥るのは、人間だけだ。
ジョルジュ・スーラという新印象派の画家がいた。
点描で知られている。
彼は文明の利器の力を借りず、この世は点(ドット)でできていると感づいた(理解した、ではなく、感づいた)。
目に映るものはすべて色が濁っていない。自然の姿も人や生き物も……。
どうすればそれを表現できるかと探求した末、彼は点描という手法にたどりついた。パレットの上でもキャンバスの上でもできるだけ絵の具を混ぜないやり方である。
絵の具を混ぜ、独自の色をつくることは画家の生命線でもあるが、彼はそれをせず、小さな点を連ねるという、じつに手間のかかる制作法を選んだ。それゆえ、スーラの作品は少ない。
彼が描いた「グランドダット島の日曜日の午後」や「サーカス」を見ると、そのとき彼の目の前にあった実際の光景はどんなふうだったのだろうと想像せずにはいられない。
しばしば私は美術館で〝逆〟の見方をすることがある。
画家はこう描いているが、実際に彼(彼女)の前にあったモチーフはどんなふうだったのか、と。
当たり前だが、ピカソが描いた女の人はあのような容姿ではなかった。しかしピカソはあのように表現した。
では、ここに描かれた女性はどんな顔でどんな表情をしていたのか、と想像をめぐらすのだ。イメージが心のなかで像を結んだとき、画家の表現に感嘆する。
そのとき心のなかで発する火花のようなものも「美」と言っていいかもしれない。
美はどこにあるのだろう。
ある人にとっては思わず涙があふれてしまうような極上の美が、ある人にとってはなんの価値もないシロモノにすぎないということはしばしばある。
そう、美とはとても儚いものである。
とはいえ、美は厳然とある。
美は儚いものだが、ひとつはっきり言えることは、なにかを美しいと感じることがたくさんある人は、そうでない人より(精神面において)豊かな人生をおくっているということ。
なにより私たちがあらためて肝に銘じるべきは、そういう瞬間(美しとき)を持つことを阻害するものはなにもないということ。
その気になれば、味わいたいだけ味わる。その気にさえなれば……。
なんと幸福な時代に生まれたのだろう。
細切れの情報をシャワーのように浴び続け、心に余裕のなくなってしまった現代人にとって、美を感じるときを増やすことは心の万能薬を服んでいるに等しいと思っている。
(2024.7.10 No.5 髙久多樂 掲載の作品はスーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」部分)