幸福の在処
断捨離が流行ってモノを処分する人が増えたり、モノを持たないミニマリストが増える一方で、古いモノやこだわりのあるモノを手元に置いておきたいと思う人も増えている。
古き良き時代のモノや文化が再評価され、若者たちの間でも流行っていると聞く。
街を歩けば、70年代80年代ごろの懐かしいファッションに身を包んだ人たちにも出会う。
手にした最新のスマホが、アンバランスなようで妙にバランスがとれているのもおもしろい。
モノはモノであって、無機質だけれど、誰かの手に渡ったとたん、単なるモノではなくなるのはふしぎ。
古着屋や古本屋の、あの独特のニオイや空気感は、ただの古びたモノのニオイだけではないと思う。持ち主の残り香にちがいない。
どんなにクリーニング処理をされても、消し去れない何かが漂っている。
だからなのか、人の手を渡り歩いてきた古いモノには、ドキッとさせられることがある。
畏れ多いというか、一種異様な気配を感じてしまうのだ。
とくべつ大事にされてきたものなら、なおさらである。
最近読んだ宮本輝さんの『よき時を思う』という小説の中に、モノに対するとても素敵な文章があった。
主人公の金井綾乃のおばあちゃん、徳子さんのセリフである。
―― 見ていると幸福な気持ちになる。それはやがて『もの』ではなく幸福そのものになる。わたしはそういうものを探して集めてきた。綾乃もそうしなさい。探せば見つかる。探さない人には見つからない。
90歳になる徳子さんは、骨董品屋の店主をも唸らせる名品をいくつも持っているのだが、そのひとつひとつに来歴があり、徳子さんの思い出もつまっている。
来国俊の懐剣、端渓の硯、竹細工の花入れ、銀食器・・・。
それらのものを、それを持つにふさわしい孫たちに、徳子さんは生きているうちに自ら形見分けをする。
孫たちは大好きな祖母から譲り受けたものだから、当然、大切にするし、手にするたびに祖母を思う。
祖母の人生や生き方に思いを馳せ、「ほんとうの幸福」を味わうのだ。
そういう場面がさりげなく幾度も描かれていて、そのたびに、読者のわたしまで幸福感に包まれた。
わたしは徳子さんのように目利きではないし、いいモノを持っているわけではない。
けれど、縁あってわたしの手元にあるモノは、やっぱりどれも愛おしい。
使えば使うだけ、大切にすればするだけ愛着がわく。
徳子さんの言うとおり。
身の回りにあるものは、わたしにとって「幸福」そのものになっている。
「幸福」とは自ら育んでいくものなのだと、今になってようやく気づいた。
(2024.2.26 no.4 神谷真理子)