自然の力を借りる
ヨーロッパの庭園は幾何学的にデザインされていることが多い。
ここまで自然を制御したいのかと驚愕するほどに。
長くそのなかに身をおいていると、さながら巨大な建造物のなかにいるような錯覚をおぼえることがある。
一方、日本の庭園は、庭師がどれほど手を入れようが、そこかしこに自然の造化が感じられる。
あえて水を抜き、砂地に波紋を描く枯山水であっても人間の作為がほとんど感じられないのはなぜなのか。
考えてみれば、これはまことに不思議なことである。
エコール・ド・パリの時代、渡仏して名をあげた藤田嗣治は『腕一本』というエッセイ集のなかで、西洋人が日本画をどう見ているかについて、こう書いている。
――日本画を一口に装飾的なものとしもっとも眼を喜ばす綺麗事とし、又ある作品のごときは事変的なもの(アクシデント)としている事がある……墨の滲みのごときものを全然偶然に起る事変的な一種の軽業のように思考しているからである。しかしそれを吾人に言わしむれば熟練であり、それが技巧であり意のごとく滲ませんとして滲ませたと断言する(以下、省略)。
「墨を滲ませる」とはたらし込みのことである。
俵屋宗達が発案したといわれるこの技法は、先に塗った墨(あるいは絵の具)が乾く前に異なる濃さの墨(あるいは異なる色の絵の具)を加え、先に塗った墨(絵の具)と混じり合うときにできる自然な形や濃淡、色の微妙な変化などによって陰影や立体感を与える描き方をいう。
有名な『風神雷神図屏風』の足元にある雲もこの技法で描かれている。
さて、このたらし込み、ほんとうに運を天に任せる〝軽業〟のようなものなのか。あるいは吾人(日本人)の言うように、熟練した絵師の技術によるものなのか。
余人には知る由もない。
ふと、ここで思い当たる。
日本の画家にとって、自然の摂理を感得し、その力を借りることも大切な芸のうちなのではないか。
神人共作と言いたいところだが、誤解を招くおそれもあるため、人と自然の調和とでも言おう。
人為があるのにそれを感じさせないのは、極限までやりきったのち、あとはなにものかにすべてを委ねるという潔さがあるからだろう。
たらし込みは、ある境地に達した芸術家が自然の力を借りてひとつの美に到達した境地でもあると私は思っている。
そう考えれば、日本の庭園に見られる、「ここまでは人間の領分、ここからは自然の領分」という絶妙な均衡が、得も言われぬ美を生み出していることに納得する。
水石というものがある。
ひとつの石から広大無辺な宇宙を感得するもので、書画骨董などあらゆる芸能趣味のなかでもっとも奥を極めたものともいわれる。
とはいえ、水石を芸術と見るにはかなり無理がある。
水石は底部以外、いっさい人間の手が加えられていない。
人間がしたことといえば、自然のなかからその石を見つけ出し、それをなにかに見立て、書画などと組み合わせて賞玩し、世に知れた数寄者が永く愛蔵したこと。
西洋人の多くはそれが芸術だなどとは考えないだろうが、これこそ人と自然の合作といえるのではないだろうか。
私たち日本人は自然から多くの恵みを得、ときには苦しめられてきたからこそ育んできた独特な審美眼を持っていることを意識しながら諸芸を味わうのも一興である。
(2024.8.12 No.6 髙久多樂 掲載の作品は俵屋宗達の「風神雷神図屏風」右隻)