巨樹に宇宙を見た男
徹底して現場にこだわる精魄の日本画家
日本画家
石村 雅幸
Ishimura Masayuki
20年近く、巨樹ばかりを描き続ける日本画家・石村雅幸。屋外で巨樹に対峙し、1ヶ月近く写生をすることもある。樹の生き様がそのまま露わになったかのようなゴツゴツとした樹肌、大地をしっかりとつかむ生命力みなぎる根……。
石村は、画業の初期から約10年間、古建築を描いていた。しかし、35歳の冬、ある巨樹との邂逅を得、以来、巨樹の本質をあぶり出そうとするかのように巨樹ばかりを脇目もふらず描き続けている。
なぜ彼は巨樹ばかりを描くのか。
巨樹を描くことはどんな意味があるのか。
ひとつのモチーフにとことん取り組む画家の、真摯な生き様に迫る。
巨樹に魅せられた男
見上げても、空を仰げないほどの大きな巨樹を見たことはあるだろうか。風に揺れた木々の光がチラッチラッと、気まぐれのようにときおり地上を照らす。それは人間にちっぽけな存在であるという事実を思い起こさせるための、巨樹のいたずらのようでもある。
20年近く、巨樹に魅せられ、描き続ける画家がいる。スケッチブックと鉛筆を手に、自分が選んだ樹に向き合う。
画家の名は、石村雅幸。神社仏閣を描きつづけていた彼は、あるときから巨樹の魅力に憑りつかれた。大きな画面いっぱいに描かれた樹は、その迫力で観る人を圧倒するが、しばらく眺めていると、巨樹の鼓動が聞こえてくるかのような繊細な表現に気づかされる。
絵に近寄ってみる。そしてまた離れて観る。これでもかというほどに詳細に描きこまれた幹の皺。驚くほど細い線だが、その線質には迷いがない。画家は、どれだけこの巨木と格闘したのかと想像を巡らせる。
気がつけば、観る人も、石村の描いた巨樹と格闘しているのだ。どうやって見るべきか。この巨樹を目の前にして、小さく儚い存在であるわれわれ人間は、何を思えばいいのだろうか。画家が抱いたであろう思いや巨樹との対話は、その作品からも伝わってくる。その作品自体が、また別のひとつの生命として存在しているかのようだ。
郷愁の地、愛媛
日本画家・石村雅幸は、1965年、父の赴任先の福岡県古賀市で生を受けた。転勤族であった父の仕事の関係で、その後、4歳までを福岡で過ごしたが、転勤により愛媛に、小学4年生まで松山市と松前で過ごした思い出が、石村の心の原風景となって胸に刻まれている。
豊かな泉を擁する重信川に足首を濡らして涼んだ夏の日。友だちと駆け回ったり寝ころんだ蓮華畑。風光明媚な環境が、石村少年の心を朗らかに育んできた。
神社が経営する幼稚園にあった楠も印象的だ。境内にある神木を遊び相手にしていた幼き日々が今でも脳裏に刻まれている。それらの愛媛の景色が、「樹」に惹かれ続ける原点なのではないか。石村はそう述懐する。
子供のころから好奇心が強かったそうだが、とくに「古いもの」への関心は高かった。祖父母の家の古い箪笥の中は、石村少年にとっては、宝の箱そのものだった。古い日本家屋の、湿気を孕んだ暗い土間。大きくて古びた醤油樽。日本の文化に共感する感性が、このころにはすでに芽生えていた。
あるとき、たまたま入院していた弟を見舞った際に、「退屈しのぎに」と母から手渡されたクレヨンとスケッチブックが、日本画家への導火線になっていたとは、このときの石村には知る由もなかった。
画家の情熱に憧れて
卒業アルバムに書いた嘘
幼稚園からエレクトーンを習っていた石村少年は、田舎の学校では、音楽で一目置かれる存在だった。しかし父の転勤に伴い都内へ引っ越すと、「普通の子」と変わらない存在になる。次第に石村の興味は、絵画へと移っていった。
頭をガツンと叩かれたような衝撃を受けたのは、このころだ。東京での初めての夏休み。同じ官舎に住んでいた同い年の宮内和之が、東京国立近代美術館へ誘ってくれた。上映されていたレオナルド・ダ・ヴィンチの伝記映画に息を呑んだ。
「絵描きの生き方に衝撃を受けました。なんて凄いんだろう、カッコいい! と」
画家の情熱的な生きざま、ストイックなまでの絵に対する追究心。公務員である父の淡々とした(ように見える) 生き方への、反動もあったのかもしれない、そう振り返る。
時を同じくして、父とゴッホ展へ出かけた。ゴッホもまた情熱的で狂気的な生き方で知られる作家だが、それらの画家の生きざまを立て続けに見たことで、画家への憧れは急速に膨らんでいった。
しかし、心のどこかに、夢と現実を天秤にかけている自分がいた。大人たちの反応も気になる年ごろだ。小学校の卒業アルバムの夢を書く欄には、不本意ながら、こう書いた。
「将来は建築家になりたい」