悠久の時をガラスに封じ込める
先人たちの思いを未来へつなぐ
ガラス作家
有永浩太
ARINAGA Kota
ガラスの道をゆく
憧れた考古学者の道を外れ、有永は岡山でガラス作りの道を歩み始めた。大学受験では考古学の大学も合格していたのだが、実際に手を動かす物づくりに魅力を感じ、もう一つ合格していた倉敷芸術科学大学工芸学科ガラス工芸コースの方に籍を置くことにした。
「実際やってみると、ガラスって思い通りにならなくて、でもそれが面白いんですよ。触れないからすごく扱いづらいんですけど、その場でどんどん形になるのが面白かった。ほとんど吹きガラスしかしてなかったんですけどね(笑)」
この大学で教えていたのが「倉敷ガラス」で知られる小谷眞三氏である。小谷氏は倉敷民藝館の初代館長・外村吉之介に勧められ、独自の技法でガラスのコップ作りをはじめたことで、その名と「倉敷ガラス」を世に知らしめた人物。従来の透明で薄い工業ガラスとは対照的な、厚みのある温もりを感じさせる民藝的なガラスを完成させた、民藝を代表する一人でもある。
そのガラス工芸第一人者に学び、有永の基礎は確かなものとなった。また、在学中に奨学金をもらってドイツのフラウエナウ・サマーアカデミーに短期留学したことも、有永の目を開かせた。
4年間、みっちりガラスの〝いろは〟は学んだ。とはいえ、独立するには、まだまだ覚えることは山ほどある。有永は10年後をイメージしてプランを立てた。
「2カ所くらいのガラス工房で働きたいと思っていました。タイプの違うガラス工房で経験を積んで、そのあとは教育機関で少し働き、独立しようと。独立するまでの行程を計画したんです」
有永は物心つく頃から父とよく山に登っていた。高校の頃はヨーロッパアルプスにも登ったことがある。プランニングはその経験からなのだろう。登山家は登山計画を立てなければ命取りになる。もちろん計画どおりに進むことばかりではない。それでも行先が定まっていれば、時間はかかってもいずれ目的地にたどり着くことはできる。
大学を卒業した有永は福島に飛び、観光向けのガラス工房で吹きガラス体験の指導をしたり市民講座で教えたりと、2年の月日をそこで過ごした。福島の後は、東京の新島にあるガラスアートセンターに場所を移した。新島は火山によってできた島。島全体が珪砂というガラス質でできている。採石される石はコーガ石といってガラスになる珍しい石で、採れるのは世界でも日本とイタリアの2カ所だけだという。ガラスを作るためにあるようなこの島で、気づけば7年が過ぎていた。
「新島ガラスを制作している野田收(おさむ)さんと由美子さん夫妻の工房で、お二人のアシスタントをしていました。工房のプロダクションを作ったり、東京都からトロフィーなんかの注文もありましたね。ここは日本全国から生徒を集めてワークショップをする仕事をしていて、年に1回、海外からアーティストやマエストロを呼んで2週間ぐらいワークショップを開くんです。ヴェネチアのマエストロや、第一線で活躍されている作家さんが来ると、彼らの仕事も手伝わせてもらいました」
ガラスは扱いづらい素材だが、技法はすでに確立されているため知識には事欠かない。ただ、頭で知るのと直接手を動かして感触を味わうのとではまったく違う。海の向こうにいる個性の異なる一流作家たちの仕事を直接体感できた有永の世界は、それまでとは比べ物にならいほど大きく深みを増していった。
「そのあとは1年間、能登島で過ごしました。特に次が決まっていたわけではなくて、最初はフリーでレンタル工房を使って少し自分の仕事をしながら、いろんな人のアシスタントをしていました。その間に、金沢の卯辰山工芸工房という若手作家育成施設で指導員をしてはと勧められ、5年の任期を務めました。まだ作家としてやっていけなかったんでね。生活のためです」
イメージしたプランの10年は、とうに過ぎた。それでも着実に目的地へ向かっている手応えはあった。
金沢での5年の任期を終え、ふたたび能登島に戻ってきたのは2017年。傍らには14年ともに連れ添い支えてくれた妻と、2人の子供たちがいる。プランにはなかったであろう家族の存在も動力となって、有永はようやく独立の大一歩を踏み出した。
(写真上『netz 黒』と『netz 白』、下『netz 黒』)
ヴェネチアン・グラスの代表ともいえるレース・グラスの伝統技法をアレンジし、オリジナルの技法で創作するガラス作家の有永浩太さん。布をテーマに展開する作品に『gaze』と名付けたのは、ガラスとの不思議な繋がりがあったからだといいます。透明なガラスの中にはどんなドラマが織り込まているのでしょうか。