紙に生命を吹き込む〝God hand〟
紙の昆虫が伝える森羅万象の姿
紙造形作家
小林 和史
Kobayashi Kazushi
物質と空間の切れない関係
一枚の紙から生まれる二つの命
80年代、ファッション界をリードする三宅一生とともに数々のコレクションでデザイナーとして活躍する傍ら、小林は依然、ライフワークとして紙昆虫作りを続けていた。そんな中、初めて個展を開いたのは28歳のとき。手応えは十分あった。デザイナーだけに生きていくことに疑問を感じ始めていた小林は、独立を決意。アーティストとして生きていく道を選ぶ。個展を開くたびファンは増え、その名声は世界へも及んだ。コレクターの中には、U2のギタリスト、ジ・エッジや、ローリング・ストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツなどもいる。
「昆虫は左右対称ですから、紙を半分に折って一気に切ります。いわゆる下書きをするように切るんです。やり直しはしません。書道のひと筆書きのようなものですね。切り抜いた後は、輪郭をトレースし、折って立体にします。そして、自然の質感に合わせて、さまざまな技法で着色し、素材感を出していきます。3歳からやっているので、形はすでに頭に入っているんですよ」
小林の作品の精緻さは、多くを語らずとも写真を見れば一目瞭然であろう。
驚くのは、ほとんどの昆虫が一枚の紙からできているということだ(右写真参照)。触角も脚も翅も、切り離されることなくつながっている。それゆえ、1枚の紙からは2つの昆虫が生まれる。切り取った造形と残された空間。それら2つは、寸分の狂いなくひとつになる。
「小学生の頃、友人たちと原っぱで寝っ転がって手を空にかざして遊んでいたんです。そのとき、友人たちは手そのものを見ていたのに対し、僕はなぜか、手の向こう、手によって切り抜かれた空間に意識が向いたんですよ。まるで、切り絵のような世界でした」
物質と空間は別々のものではなく、実際はつながりのある1枚の紙と同じではないのか。ただ人間の目で切り取って見ているだけであって、本当は、この世界の物質と空間はひとつのものとして存在しているのではないか。だとしたらなぜ、切り離す必要があったのか。物質と空間のわずかな隙間から漏れてくる光に、少年は何ものかの存在を感じ、恐れおののいた。
「昔は捨てていた部分も、今は一緒に展示しています。その方が海外などでは説明しやすいし、1枚の紙から創り出すことは、僕の哲学であり宇宙観なんです。切り取ったものも残されたものも、それぞれが別々のものとして存在するのではなく、必ずワンセットですからね。陰と陽の関係です」
日本人の死生観は、死後の世界と生前の世界を切り離さない。われわれが生きているすぐそばに死後の世界は広がっていて、生と死は襖1枚ほどの隔たりしかないのだという。小林はそのことを作品で表現する。
虫は万物、自然の化身
生命の神秘に触れる
10歳まで重度の小児喘息を患っていた小林に、楽しいイベントの思い出はほとんどない。旅行はおろか、外で遊ぶことも許されず、自宅での療養生活を強いられていたからだ。
その日も熱があり、体調は優れなかった。
「5歳のとき、家族で奥日光へ旅行をしたんです。そのときに見た光景は、今でも目に焼きついて離れません」
息子の病状を気にしながらも、両親の判断で家族旅行は強行された。
晩秋の戦場ヶ原はうっすらと霧がかかり、花が咲き乱れ、鳥や虫たちが飛び交い、桃源郷のようだった。夢にまで見た父との昆虫採集ができるとあって、小林は嬉しくて嬉しくて、夢中になって昆虫を追いかけた。その翌朝のことである。
「宿の目の前にある湖畔で氷結したトンボを見つけたんです。昨日まで生きていたトンボが、沼に頭をつきさしたまま凍っていたり、杭に止まったままの姿で凍っていました」
トンボの命はたしかに静止していた。その姿は可哀想というより、むしろ神々しく美しかった。シャッターで瞬間をキャッチしたような、一瞬のうちにすべてが凍りついたような光景は、静謐で冷ややかでありながら、不思議と温もりを感じた。もしかすると、朝陽が昇りきる頃には氷解し、トンボたちは再び飛び立つのではないかと思った。生まれて初めて〝死 と生〟 の境い目を見た瞬間だった。
「虫は地球そのものです。虫への共感があるかどうかが分かれ目ですね。それって、ある種の結界でもあると思うんです」
変わり者のレッテルを貼られ、毛嫌いされがちな生き物たちに共感できるか。そこに、人間の感性や器の大きさが現れるのだろう。
「太古から存在する虫は、万物の化身とも言えます。虫の様子を見ていれば、自然のありようがわかります。人間も一人ひとりが孤立した存在なのではなく、彼らと同じ、自然の一員であることに気づきます」
すべての生物の元をたどれば地球に行き着く。人も動物も、鳥も虫も草木も、命あるものはみな、海から生まれた。
もともとひとつだった命が何かの理由で分かれたのなら、周りにいる虫たちや草木に眼を向けることは、彼らを身近に感じ、自分や他人、人間というものを知ることにつながるのではないか、と小林は言う。
標本の昆虫をじっくり観察し、その生態を知り、無我夢中で作り上げていくうち、少年は、昆虫とひとつになる感覚を覚えた。
──僕は虫なんだ。
一体感に包まれるたび、昆虫の心が伝わってくる。昆虫の眼から見える景色はこんなにも広く、世界は生命の輝きに満ちていたんだと胸がふるえた。虫の目線で見つめ、本物らしく仕上げるほど、自分の存在は影をひそめ、ひとつに融け合ってゆく。
幼少の頃より小児喘息を患っていた小林和史は、いつしか紙で虫を作ることを始めていた。それはやがてリハビリテーションに、そして祈りへと昇華していった。
やがて彼は1ミリを16等分に切り分けるほどの能力を身につけ、紙に命を吹き込むようになった。そんな彼は、〝God Hand〟とも呼ばれ、今では世界的に名の知られた人たちがコレクターとして名を連ねる。
喘息に苦しんだ彼はどのようにしてその手業を身につけたのか。その真髄を紹介する。